信州から越前・越中地方で「おかけじ」。関東から東北地方で「はまや」と言われている
初正月用祝い物が佐野絵の掛け軸なのです。今は卸先も代替わりとなり、佐野絵掛軸では通
じなくなりました。やむなく納品書は「お祝い掛軸」と改名?しました。今でも「はまや」
の美倉が何本、左京が何本と注文の電話が来ます。並物から上物の絹本まで六品種あります
が、安価な品は幅が広く長さが短く、上物になるほど狭くなり丈が長くなります。 これは
江戸の床の間が無い家、町屋でも床の間のある家に合わせた寸法が残っているからです。
江戸時代の初期を経て平穏の時となり、庶民の道中は浮世絵や弥次喜多道中にみられるよ
うにかなり自由となりました。しかし女性は幕府の政策「入り鉄砲と出女」の制約のため、
男たちの羽を伸ばしての「お伊勢詣り」や「京都見物」が大流行したといわれています。
やがて享保年間(徳川八代) には女性の往来も自由になり、江戸から近い「東照宮詣り」が人
気となりました。
厩橋(前橋)を経由して江戸に向かう「東山道」と 日光と江戸を結ぶ「例幣使街道」の交差
する天明宿 (のちに佐野町)は旅人の往来が盛んとなり、たいそうな繁盛になりました。
日光詣りの帰路ご近所の人達えのお土産に佐野絵掛軸(はまや)を買い求めお配りする風潮
ができました。日光〜今市〜栃木〜佐野〜岩槻の例幣使街道ではどこでも売っていました。
本題の佐野絵を知るにはその前に先進の大津絵を語らない訳にいきませんので申します。
大津絵の本物は厚手の書道半紙一枚に画いたもので、なかには半紙を縦に二枚貼り合わせた
ものもあります。絵師の発祥は高橋某とされています。明和五年に大津の三井寺円満院にて
円山応挙が土地の絵師を指導したことにより、たいそうな評判になり大津絵の全盛期になっ
たと、円満院門跡所蔵の応挙の絵および書物にあります。私は大津絵図譜千部限定の登録七
○弐号を所有していますが、第一頁には藤娘が載っています。応挙の絵、仏画、文よむ女、
鬼の念仏、大黒画、恵比寿、提灯釣鐘、瓢箪なまづ、等がよく知られています。
佐野絵は大津より大きい烏山産の唐傘用和紙に描かれています。お土産には持ち帰りに不
便なので、木の丸棒に巻き付けてお客に渡していました。画風はどちらも版画風ですが大津
絵は漫画っぽくて面白い。佐野絵は後述の歴史画の流れで少し生真面目のように見えます。
やがて丈の少し短い簡単な安物の紙表装にして売り出したところ評判が良く、江戸の人たち
は部屋の長押 (町屋なので鴨居の上の桟?) に十幅程も並べて見せてから、日光見物の証に親
戚やご近所に配りました。
その風習がいつしか、生まれたばかりの赤ちゃんの初正月を迎える家へ、十二月初旬に 市
(イチ) が立ち、そこで買い求めお祝いに贈る習慣になりました。
女児には「藤娘」や紫式部、清少納言、美人画。男児には「元寇の役で浜辺を警備する騎馬
武者」が代表的な絵です。この浜辺に用意した弓矢が現在の「はまや」と「破魔弓」の語源
です。女児は美しく良縁に恵まれますように。男児は邪を祓い油断なく出世するように。と
の願いを込めての祝いものとなりました。
特に富山や金沢は近所付き合いの堅いところとして知られており、良く使われました。急速
に全国に広がったのは、売薬の人たちのお陰だとも言う佐野市史研究の人もいますが、いち
がいには否めません。
佐野絵の絵描さんの発祥は判っていません。中興の祖は現佐野市小中町の小堀安斎師で、
人丸神社の枠造りの天井に花鳥風月画が現存し、重要文化財指定となっています。
師の子が今の芸大出で、昔の言い方で帝室技芸員の歴史画を得意とする 小堀鞆音(トモト)師
です。 芸大に大作が数点現存し日本画を志す学生は模写を勉強するとNHKテレビで視まし
た。「謡曲鉢の木」の安蘇のわたり(佐野市の昔は安蘇郡) を京都大学生が前橋の安蘇かどう
か調べに来た時、市から頼まれて佐野源左衛門常世の墓にも案内しましたが、大津は商品と
しては廃れたのに、佐野絵掛け軸が商品として残っているのは不思議だと言っていました。
佐野絵の掛け軸の最盛期には約五軒の業者合わせて年十万本生産したそうです。弊店では
裏日本には根強い天神信仰があり、天神様の絵を絹に描き本式の表装にちかくて安価な掛け
軸が欲しいと言われ、我が家に伝わる天神様の木像を絵にして生産したところ、評判が良く
長野県以遠によく売れました。これが現在でも弊店が佐野絵の掛け軸屋として製造している
由縁です。
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天明斎昇月堂 藤 沼 人 形 本 店
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