エーゲ海のボロス島
2001年3月69歳で天国にいった妻と共に旅した15年間の足跡の記録となりました。
Preface
前書
FUJINUMA and Wife's
外國
旅先見聞エッー
ガイドブックで紹介すみや、私より皆様のほうがご存知の事は書きませんでした。
従いまして ヨーロツパ諸国は省略しました。イスラム圏の方が
エッ
が多いのです。
海外
インド2度、ネパール王国2度、
タイ王国2度、
中華人民共和国2度(広州桂林と北京だけ)、スリランカ民主社会
主義共和国 、シリア・アラブ共和国、ヨルダン王国、レバノン共和国、イスラエル国、トルコ共和国、ギリシア、
マレーシア、ペルー共和国、フイリッピン共和国、シンガポール共和国、台湾、ホンコン、インドネシア共和国(バリ
島)など
[西ヨーロッパ諸国]・・・グレートブリテン王国(イギリス)、オランダ王国、ドイツ連邦共和国、フランス共和国、スイス
連邦 (フランス隣接のジュネーブ周辺だけ)。
スペインとオランダは次回に行きたいとしたが、ついにチャンス無し。グラナダのアルハンブラ宮殿はまぼろし。
西ヨーロッパは一周13日程の駆け足団体ツアーで.イギリスから入りフランスから出てきただけ。学徒動員
で西洋史を知らないから古城や寺院もロマンチック街道もただ説明を聞くだけ。交通機関の時間都合で、夜ホテ
ル着で早朝出発、ホテルの外観や名前もわからず、朝食はバスのなかでサンドイッチなんてこともあった。今振り
返ればそれも懐かしい旅かも。意外でしたのはフランスの農業、お米を沢山作っていて生産の半分を輸出してい
るとの事でした。
イタリアは一国だけで12日の4日ほど長いツアーなので催行人員にどうしても二人足りず、名古屋の友人から電話で
ぜひ夫婦で参加してと誘われOKした、年齢も皆同じくらい。同じホテルに2泊なのでのんびりした旅、思いがけず
最高の旅となった。友人は奥様を亡くしているので、付きっきりで妻の世話をしていた。今は音信なし元気かな。
タイランド2度目は若い運転手2人と私夫婦だけの旅、往きは小型バンで4泊して南から北にジグザグ縦走、地図を見
ては行き先を変更してしまう。芥子の三角地帯まで行った。休憩所では空いた所に駐車し、車の音楽で教わりな
がら四人でスクエアダンスをいつも踊って居た。
スペインはモロッコの行きに1泊、帰りに2泊で古都トレド観光がついていて、グレコの赤い衣のキリストの壁画が見られ
ました。
寄港しただけは
各駅停車で最遅速で有名なパキスタン航空
、2日がかりでダマスカス空港行き。帰路カラチで航空
会社負担のトランシット・ホテルをあてがわれたが、最低も最低お湯も出ない、ただベッドがあるだけ、航空機のお
客は所帯道具を持った出稼ぎばかり、サウジ・アラビアあたりの帰りらしい。
往きにアラブ首長国連邦の ドバイ・アラブ空港、帰りは街に隣接したアブダビ・アラブ空港。ドバイもリング状の発
着場のある近代空港、円形のロビーの壁や円形天井が金箔づくめ。空港の西側、入り江の対岸の中心街はタワ
ー型の高層ビルが林立しているのが見えた。
シンガポールと香港は2泊でバリ島から時々行く。 日本に帰るとき手荷物が増えるから見物だけ。インドネシアは学芸
ビザは35才まで。商社マンは6ヵ月。観光ビザ ( 現在は30日、ビザ代といってUS$25.着陸時に現金にて徴収)
故に長期滞在者はちょつと近い国外に出て、パスポートに再入国のスタンプが押してあればOK。
行っていない国
なんと ハワイ、アメリカ、
オーストラリア、韓国
にいって無い。
国内
商用のついでに2日程余分に延ばして観光する程度。 北海道・四国・沖縄には未だ行っていない。
写真アルバムは妻の葬儀でザワザワと取り込んでいた時、お手伝いの方々が段ボールに入れて
どこかに片づけてくださったが、その後見つかりません。ネガフィルムもスキャン器から
取り込める時代が来るとは思わなかったので、管理が悪く殆ど紛失して、当ホームページ
に掲載する写真がなくなってしまいました。
写真はポラロイド・カメラで撮して、プレゼントしたので、写真が無いのは当然と思いだしました。
インド・ネパール・シリア・ヨルダン・モロッコなどを旅していた頃は、ポラロイド・カメラが珍しい時代でした。
他人様を許可無くとるのは失礼、最初の一枚を撮らせてもらうには言葉が通じないので、少々勇気がいるが、
ナンダ貰えるのかと判ると、皆撮ってくれと喜び、すぐ仲良しになってしまいます。
インドのデリーからベナレス行きの寝台車で、私達夫婦は周りが皆現地の人で、妻をかばって緊張していた。ふと気
づいて、前席の五人家族らしいなかの主人を撮ろうとしたら、息子に拒否されたが、身振り手振りで写真をあげ
ると判らせて撮して、ご主人にあげたら理解して大喜び、家族を全部撮ってあげた。おかげで安心して寝られた。
ベナレスに着く頃には息子達と片言英語ですっかり仲良しになって楽しかった。
それ以来ポラロイド・カメラは必携品になってしまいました。写真は持ってないが私と妻の心の中には楽しい現地の人
との交勧の思い出が沢山あります。特に妻は楽しくて仕方ないらしく、「お父さんて何と頭が良いのね」と言われ
るのが、ほのぼのと嬉しい私でした。
The text 本文
旅 先 見 聞 Heh
マチュピチュの空中都市 モロッコのカスバ
モロッコ・マラケシュの水売り、小脇に抱えた羊の皮袋に
は皮表面の気化で
自然に冷たくなった水
が入っている
。
ペルー共和国
ペルー
の
首都リマ市 いつも曇り空
世界で一番晴天の少ない都市と して有名
なのだそうです、それ
でいて雨は降らない、なんとも不思議な雰囲気。
旋回しながら撮るのでよく写らない。 妻と副操縦席は名古屋の田中さん。 筆者撮影
ナスカ の地上絵と空中都市遺跡マチュピチュ と ティティカカ湖 が知られている。地上絵はリマからナスカに中
型機で飛び、セスナ機にて見物する。 空中都市遺跡もリマから中型機でクスコに着陸。高原鉄道で100kmほど
北上する。
高所都市クスコから空中都市マチュピチュに行く、高原軽便鉄道。
南米で一番高い駅 どの駅でも同じ楽団 なぜ ! 特に多い交差駅の物売り
軽便列車でインカの空中都市 マチュピチュにやっと到着。
南米で一番高い鉄道の駅の物売りと、どの駅でも演奏している楽隊の クスコの「谷間 のカーニバル]
発車直前は決まって [コンドルが飛んでいく」。
高原鉄道でクスコ駅を出発。暫くは登りなので周りを高山に囲まれたクスコの街と滑走路が見渡せる。ディゼル列車
はやがて峠を下り始める。小さい駅が所々にあり単線なので中間の駅では交差のため相当長く停車するここは
たくさんの物売りが居るどの駅でものんびり停車、地元の人は野菜など買っている。またどこの駅でもケーナ笛
二人と、少し皮のゆるんだような太鼓とギターに良く似たチャランゴの楽隊が演奏している。
発車すると楽隊の人が列車にぶら下がっているただ乗りなのだ。どの駅でも発車直前[コンドルが飛んでいく]
を演奏する。やがて山の登り口の終着駅に到着。
観光客はバスに乗り換えて、標高2800m崖上のマチュピチュに到着。インカの文化に驚嘆。言葉が無い。
バスの帰路のつづらおりの下り坂で、「グッバィボーイ」のグッバーイの声に送られ後ろ髪を引かれる思いで下
山した。
オカ(
葦の一種)
浮島
の住まいと子供たち テ
ィティカカ湖
の オカ葦の 小船
ティティカカ湖にはクスコから350kmほど南下した、アンデス山中の標高3800mの高所にあり、湖を斜めに半分程北側
がペルー領で、半分の南側がボリビア領の国境になっている。湖の浮島の住人
ウロス族
は
インカの子孫
であ
るという、葦の小船で漁をして暮らしている。ボートから島に乗るとふわふわして変な感覚。新しい葦や藁を絶え
間 なく敷いているので足にからんで歩きにくい。インデオの神話では太陽はティティカカ湖から生まれたと言う伝
説があり。
マヤ
にも同じような神話があります。マヤの今の太陽は三代目と信じられた時代があったという。
南米の 海抜3800mのティティカカ湖に 隣国ボリビアの軍艦がある
。
ボートで行った遠い葦の浮き島から、ふと双眼鏡で湖の南の方を見ると、艦砲を備えた灰色の軍艦が1隻いた
のには驚いた。ホテルに帰って訳を尋ねたら、長さで170kmほど、幅が70kmの湖の斜めに2分の1程向こう側が
國境なのにかなり近く、時にはペルー側の湖畔の町プーノ から見えるところまで国境を越えて軍艦が来ている
という。
ペルーの南隣の
ボリビア共和国には海がないのに なぜ 「海軍」 がある
。
以前のボリビアは太平洋に続いていたが、チリ共和国との戦争に敗れ、海がなくなってしまったとのこと。
チリとボリビアは世界有数のリチウムの産地
。最新のリチウム・イオン電池。またエコカー用の高性能の電池
の原料として、世界中の期待がよせられいるそうだ。
ネパール王国
交代で操縦席に入れてエベレストを撮らせてくれる。
バンコクに1泊、翌朝暗い内に発ったので、カトマンズに早く着 いた。空をみると良い「お天気」。すぐさま
エベレストを観に行く。やや古い中型機で観光飛行。タバコ・マッチ・ライターの検査は厳重、みな空港に預ける。
山に近づくと左旋回・右旋回とお客に平等に見やすいように飛ぶ。やがて二人づつ交代で操縦席に入れて写真
を撮らせてくれる、視界が広くて自分が空を飛んでいるようで感激。朝のほうが雲が低くよく見えるそうです。
翌朝飛んだ人は雲で山が見えず、25ドルのうち20ドルを返金して、明朝また来てだって、良心的です。
ルンビニにお詣りに行く
ネパール・ポカラ空港からバイワラ行き。 滑走路の近くに牛がいた。
朝5時発のバイワラ行きのミニバスもあるが5時間もかかる。途中トイレが無いから腰回りを隠す大きな風呂敷状の
布が必須。 カトマンズとポカラ間でもバスは同様。 歩いているお坊さんのオレンジ色の僧服がスカート状にな
つて居るのはそのため ? 故に黄色のスラックスの妻のため双発セスナ機にした?。
釈尊生誕の地
タライ平野の
ルンビニ
には広大な敷地に小寺院が点在する。
インド仏教の四大聖地の一つルンビニ。 衛星からの写真。
ポカラ
からルンビニの近くの少し大きい町バイワラ まで双発
セスナ機。それからバスで行った。私が20年程前に行った時
は小さい村で、遺跡も判別出来ない状態で、何もないところに
小寺院が点在するという状態で特別なものはなにもなかった。
タライ平野は土質のあまり良くない草原地帯が続いていて釈
迦族の子孫が静かに暮らして居た。現在は
発掘され世界遺
産に登録されている
ので様子だいぶ変わっているらしい。
衛星の写真で観ると大きな円は石垣?私はきづかなかった?
ヒマラヤの山麓は燃料に使われて ひどいハゲ山の連続。
当時ネパールは中国寄りの政策をとったので、インドからの物資輸送道路4道の内3道が制裁封鎖されていて、残さ
れた1道も検閲が厳しく、インド経由の石油が来ず難渋しているのが原因。下流のバングラデシュは洪水が多発
して困ってい.るという。
ネパール カトマンズ パターン旧王宮を前にて妻
ネパール王国の国王はグルカ族。
ネパールには東にカトマンズと西に200kmのポカラの二つしか都市がない。その中間に
ゴルカの町
があり、グルカ族
の発祥のところ、ネパールの中ほどのところ。ロッククライミグが得意。英国の傭兵で勇敢無比のグルカ兵として
有名。観光客用ホテルのセキュリティは、殆ど退役グルカ兵、
英国陸軍の服装で、客の出入りには、きちんと
挙手の敬礼をする。
カトマンズ・アンナプルナ・ホテルの出来事 T
:
前日の夕刻遅くに、手の空いたコックさんを
ポラロイド・カメラ
で撮ってあげたら大喜び。翌朝食事に行ったら、
ホテル従業員が全員でないかと思うほどお出迎え。ビックリしていたら昨夜のコックさんが写真を撮ってあげて
の身振り。早速部屋に戻りフィルムを沢山持ってきて撮影開始、のんびりしたホテルで
従業員全員がお友達
みたいになってしまった。
カトマンズ・アンナプルナ・ホテルの出来事 U
:
お客は少なく、撮影を見ていた日本人夫妻から、妻が呼ばれたらしく お茶をご一緒している妻に手招きされて
ご挨拶にいった。 ご主人は大学教授を退官し、現 日本ネパール協会会長さんご夫妻でした。
私と同じロータリークラブの会員に山野井武夫君という日本ネパール協会員が居ると話すと驚いて「学校の校舎
を二棟寄付して呉れた人」で年は若いが教授の友人だという。
彼はヒマラヤ登山家とは知っていたが、ヤマ
ノイの名のついた教室があると知り驚いた。
奥様のいうには私の街の隣の栃木市の日立製作所栃木工場の方に娘さんを嫁にやっていて佐野市は娘夫婦
と見物に行ったことがあるという。 ご縁とは不思議なものだ。
帰宅して山野井君に日本ネパール協会会長に会った話しをしたら、アンナプルナ・ホテルで会ったのでしょうとホテル
名を言い当てられ、そこは一番良いホテルで彼らの定宿だそうだ。
後日、山野井君の仲介で佐野ロータリークラブに
駐日ネパール大使アンジャム閣下
が講演に来て呉れた時に待ち
時間の応対を頼まれた。大使閣下の言うには王と少年からの親友でイギリスのオックス・フオード大学も王とご一緒
だったそうな。
(追記) その後に嫁の事で大事件。ご両親を銃で撃ち本人の皇太子も亡くなったので、弟が王位につき、貧困が背景
の毛沢東主義の武力闘争となり、ここ10年その勢力は増すばかり、退位か国外追放の大規模なデモがあり、今のと
ころ解決の兆しは無い。2008年4月 國会議員の選挙があり、毛派の勝利。日本人が一人立候補したが落選。
イ ン ド
あまり友達になりたくない人々の国
インドに行き駅にいった方はみな見ているが、私も
ナルホド、ウヘー
。
生きるためにはすざまじい。 ポーターのスーツケースの奪いあいの話。
駅に完全に停車してないのに、汗まみれの赤シャツ
で頭に汚い布(ターバンではない) 髭ぼうぼうの男達が左右の降
り口から数十人どっとなだれ込み、通路は満杯、虚をつかれ降り支度をしていたお客は身動き出来ない私が添
乗員を見ると座れ座れと両手を下に振っている。赤シャツの怒声で添乗員の声は聞こえない。網棚のスーツケ
ースを頭に乗せ始めたお客の頭にぶつかっても構わない、半数ほどの人は2個乗せている、1個の人が2個の
人に罵声を浴びせているのが判って少し落ち着いた、妻はまだ呆然としている、大丈夫と座らせたら状況を理解
した。ポーター達がスーツケースのとりっこをしているのだ。
棚の荷物が全部なくなり静かになった、添乗員がそのまま暫く待てといった。
ソ連の若い軍人
達の一団
も、チロルハ
ットの
スイスの一団
の添乗員も、
日本の添乗員と同様の様子。次はプラットホームで大騒ぎ、1個と2個の取り合
いがまだ続いている。白い長衣の長身の品のあるインド人、ボスだ。しばらく彼らの様子を見聴きしていたが、お
前の1個を彼の1個の者に渡せ、と 差配している様子。口ごたえしょうとするとジロッと視る。速スーツケースをし
ぶしぶ渡す、素直でない態度だと ジロッと視る、これを繰りかえしているうちにプラットホームに長く1列に並んだ。
それまで待っていた添乗員が自分のケースの赤シャツの脇についてください。チップはボスに会社から支払うか
らチップを要求されたら ボスと言って親指でボスのいそうな方向をさしてくださいと注意がありました。あとは殆ど
問題なく、駅前に待機の観光バスに到着。まったくヤレヤレ が本音。
デリーの駅のプラットホームでは、手荷物を係留する 「丈夫な鎖と錠」 の物売りがたくさん居る。
インドの神 、ヒンドゥー教の信仰は大別して2大勢力に分かれている。
ヴィシュヌ神を信仰するグループ と シヴァ神を信仰するグループです。
ヴィシュヌ神
は10神に化身する
。
化身
9番神はなんと仏陀
である
。
私には10神に化身という信仰は理解できかねて
むずかしい。しかしインドでは多数派である。
シヴァ神
は
形態は 違えど世界中にある土着信仰の形態である。このヒンドーは「男性器リンガム」を本尊として子
孫繁栄、五穀豊穣を願っている。息子が二人。富と繁栄の神で象の姿のガネーシャ と 戦争の神スカンダがいる。
シヴァ神の妻の神様は 「地方によって異なる」 のだそうだからおもしろい。
今回のインド旅行の目的はバナーラス(ベナレス) でした。
バナーラス駅からバスでガンジス河に向かう。町中でも想像に絶する光景にぶち当たる
翌日早朝の暗いうちにホテ
ルを出発し、船で河の真ん中を遡上する。やがて舳先を岸に回し流れのまま下る。ここがハイライト。ガトーで遺体を
焼いていた残り火のかすかな煙をくぐり見物。川には子供の死体が2つ、牛の死体と一緒に流れていた。
お金のある人はガトーで一晩中薪で焼く。お金の少ない人は電気炉で焼く。貧乏な人は川に流す。とカイドの話。
同乗の船に医師のグループがおり、やや乳白色の
河の水を分析していて強アル
カリ性だそうだ。
道理で河に草木が全く無い
、わずかに骨灰を捨てた水面の所だけ布袋草が群がっているだけ。聖なる河の細菌は
死滅するが、灌漑には使えない。
河下のバングラデシュでは毒水なのでダムを造り曝気している。インド側でもダムをつくっているがこれは発電のた
め。水争いでバングラデシュともめている。そういえば ネパールのヒマラヤからの水も薄い乳白色で飲料に使えそう
もなかった。
MSNのホットメールはインド人技術者が創ったとは知らなかった。
二度目のインド旅行の案内人は日本に憧れ、夫人が日本人の旅行会社に勤めた青年で将来は小さい貿易業をやり
たいと言っている。のちに福岡の高校教師の仲介で博覧会の通訳に日本に来て、帰国前に私宅に1週間泊まっ
た。彼は今世界中に使われている
無料の 「ホットメール」はインドのサビル・バティアさん
が創ったと聞かさ
れた。後で調べたら本当でした。
他国を旅行すれば、自分の身は自分で守るのは当然、よって他国の悪い批判は書かないが、
インドだけは特別。
言うに言われぬ不遜を実感する
。空港職員、ホテルの管理人、現地旅行社 などには特別の
注意が必須。
これは上記の同行案内人ですら嘆いていた。ガンジー氏、ネール首相、マザー・テレサ(アルバ
ニア人)等に関連して好感をもってしまうが、実際に我々の接するインド人とくには、「妬み」を感じる。
帰りの空港で妻の搭乗券には検閲済みのスタンプ押さない、いざ搭乗の際、始めの通関まで戻ると、当人は交
代居ない。事務所で私のスタンプの押してある搭乗券を見せて抗議し、妻のスタンプを押してもらった。
ホテルのカウンターでは、クレジットカードを見せろという、別の日本人はカードがないので現金を見せたと言っ
ていた。不払いを心配してのことだろうが、こんなホテルは他国にはない。旅行者と自分の生活が違うので妬
ましい行為だとつくづくおもった。特に平役人の小意地悪は世界一。
インドはリピーターと二度と行きたくない人とはっきり二分されるが、環境だけでなく、
官民とも
訪
れる人を
もてなす心
の欠如や国民としてのプライドのない言動にも原因があると思う。
体験した別の例として、ボンベイの入国検査で金属探査のピーが鳴ると、ベルトの前を引き手を局所に入れ、
うす笑いをした。つい「馬鹿ヤロー」と怒鳴り しばらく睨みつけました。次の西欧人の男性も、「ルードフルー」
と大声で怒鳴っていました。
交通警官のいる街角で、靴磨きが妻の靴に緑色のマヨネーズを付けた、偶然私は全部見たので 私が妻の靴
を紙で拭き、腰に両手を当て靴磨きに抗議、日本語でバカヤローと叱った。問題は警察官の態度、ニヤニヤし
て始めから見ている。 これでは靴磨き台を蹴飛ばせば、原因の靴を汚したのは知らぬふりで、逆に器物破損
にするのはミエミエ。そういう警察官の態度に腹が立つのです。 インド人は生きていくためには泥棒も警官も
同じという前時代の人たちなのです。
インド南部のタミール人は出稼ぎの労働者で、悪くいえば裸で褌一つ。
スリランカの北部ではインド南部タミ
ール人労働者の武力抗争で手に負えないで困っている。
インドの特権階級の会社(鉄鋼会社など)は近い将来に従来の欧米型や中国華僑型とは異なった資本経済の
敵対的行為で日本をはじめ各国に脅威を与える可能性がある。極論だが相手国の有名かつ必要な企業を倒
す。または乗っ取りを(TOB)やり、見返してやるぞと不遜な深層心理が諸所に見え隠れしている国である。
パキスタン・イスラム共和国
パキスタン最南端のカラーチのホテルの隣の空き地の様子。
航空機交換乗り換えのため、トランシット・ホテルに案内された。庭も余分な敷地のない建物だけのホテル。夜11時
なれどチョツト街の様子を見ようとホテルを出て右隣の空地を見たらビックリ仰天、日本の昔の夕涼みの竹の縁
台と全く同じ竹の寝台に、直にそれも裸で腰巻きだけの男の労働者が百人程寝ている。ホテルに跳び帰り、
廊下の右窓から下を覗いたが、このような光景を初めて視た。遠くの空き地を透かして視ると同じような所が数
カ所ある。5人一組のライフル銃を持った警官が群れの中を巡回して別の場所に移り、暫くして再び来る。
ツルハシとスコップで地下鉄を掘っているらしい。 前にカルカッタで地下鉄掘りをみたが全く同じ様子でした。
妻と私は変にみとれてしまい半時間も窓辺に立ちつくした。ふと後に気付いて振りかえると、同行の日本人が数
人言葉もなく見ていた。イスラムは禁酒で疲れているから皆早くから寝ているが、もし酒を解禁したらどうなるか
は火を見るよりあきらか。
トルコ共和国
現在の
トルコ
は
イスラム圏のなかで唯一政教分離国、ヨーロッパ化を目指す国。
70年前のトルコ共和国初代大統領ケマル・アタチェルク(アタチェルクは父なるトルコ人と国会で与えられた姓 )は政
教分離、イスラム教国でありながら、民主主義を目指した穏健イスラムの世俗主義に改革した。イスラム社会の
旧幣の打破をしている珍づらしい国である。ケマルの記念館は観光コースに入っている。
15年ほど前トルコに行ったのだが、ガイドの青年がフセイン君、 トルコの東隣の国
アルメニア
とそのまた東隣の
アゼルバイジャン
との間に紛争が起こり、トルコの青年達が義勇軍として
アゼルバィジャンを助けに行く
と息
まいている最中に行ってしまった。 ガイドのフセイン君は今の私達のツアーが済んだなら志願すると言っていた
隣のアルメニアより一つ遠いアゼルバイジャンの方がトルコと民族が同じなのだそうだ。
イスタンブールの「アヤソフィヤ・モスク」は旧ギリシヤ正教の総本山だったが、オスマン・トルコに占領されモスクに
改造されたという。マリアに抱かれたキリストの壁画が保存されてあった。
蒙古軍が通り過ぎるのを待ったキリスト教徒の秘密の地下洞窟街や寺院地下の大水槽などが数カ所ある。東
西とスエズまで続く北南の十字路といわれるイスタンブールは不思議が沢山ある。
中央部のカッパドキアの巨大な石筍形の岩が林立し住居や教会の洞穴は奇景。それからバムッカレの石灰温泉棚。
私の行った15年前、当時の首相の方針で、世界最多の遊牧民クルド人のうち、トルコ内クルド人の
定住化政策と政教分離を踏襲していた。それなのに東部のクルド人はイラクの影響で独立国家を望み政府の
いうことを聞かない、なんともややこしい。 シルクロードの西端を見たいと思ったが、東部トルコは旅行禁止で
した。
その後東部のクルド人が独立を望んで争乱が発生、軍隊まで出したのは皆さん周知のとおり。2007-01-25の現在
EUは未だトルコの加盟をみとめてくれない。アラブとの架け橋にすれば良いのにとテレビの解説者が言っていた。
イタリア共和国
サン・マルコ運河入り口から,船付き場,サン・マルコ大寺院
ベネチェアの水路 ピサの斜塔 ローマのコロッシオ
ベネチェアの水路が狭く、両側に高い建物のところでは、先行している別のゴンドラ
の二人の楽士の伴奏で年配の歌手がカンツオーネを聞かせてくれる声が良く響く。
イタリヤは名古屋の人に催行人員の不足の穴うめに頼まれて行った。
以前のツアーで、たまたま一人で参加していた名古屋の男性と知り合った。私たちより10才ほど若い人。看病してい
た奥さんに3年前に亡くなられたそうな。気持ちを変えるため旅行し始めた
彼には四国高松に似た境遇の友達
が出来
ていて、
催行人員に2名足りないから行って欲しいと電話があり、それならばと出掛けた。
気が合うとは
不思議なもので、自由時間は四人
で行動した。 その後も、同じようなことが数回あった。ちょつと変わった友達
? の話。 妻は誰でもすぐ友達にしてしまう。
ナポリの遠景 トレビの泉
私と名古屋の田中さんは、どこでも観光バスが止まる度にお店に飛び込んで、そうしないとイタリアに来た意味がな
いかように カプチーノ を飲んでいる。量が少ないから何回飲んでも問題なし。
ミラノから入国して、ローマから帰国する、お定まりのコースなれどイタリアは最高の観光地。
イタリアには バチカン市国 と サンマリノ共和国 の2国が 北部と中央部にある。
ローマの近所に人口1000人の「
バチカン市国
」があるのは知っていたが、ベネチアの南方150kmの
サンマリノ が
人口2万人の「サンマリノ共和国
」 とは知らなかった。
中華人民共和国・シルクロードの上を飛ぶ
シルクロードを空から全部観られるルートがあるなんて知らなかった
。
パキスタン航空の帰路。南のカラーチ空港発、モヘジョダル遺跡上空を経て、イスラーマーバードから北京経由の成
田行きに乗った。 やがて左側に [ K2 8611m] が見え。間もなく右にゆるく旋回し 中国領に入る。
北に天山山脈、南に崑崙山脈の間を東進する。地上はタクラマカン砂漠、地図を見ると ホータンから敦煌へと
飛んでいるように思える。まさに中国西端のシルクロードだ。殆ど真っ直ぐに続く長い長い道が時折ある。敦煌
で北京までの距離の40%程のところ。
カラーチ
で
航空機と出発時間を突然換えられ、ホテルで早朝の5時にたたき起された不満など忘れてしまった。
K1、K2、天山、崑崙
など シルクロードが全部見える航路があつたのだ。
(註) いま パスポートを見たら、 16 MAY 1996 の出来事でした。
スイス連邦
アルプス山中の23の州からなる連邦国家です。 公用語はドイツ語・フランス語・イタリア語。通貨は スイス・フラン
この150年間、戦争経験のないスイスは世界各国から中立国と
して認められている。
人口は690万人
首都ベルン
より 国際機関の多い レマン湖のほとりのジュネーブ の方が知られている。
現代用語の基礎知識2004版の国連の項には、
永世中立国スイス
と東ティモールが2002年 9月に加盟し、
国連の普遍性はほぼ達成された。の記述がある。
ついでに、イタリアのなかの バチカン市国 の 古風でカッコイイ衛兵?守衛? はスイス人である。とイタリアのガ
イドさんが説明していたのを思いだした。
スイスはシェルター設置100%
。
建築基準法で決きめられている ! 。
ヨーロッパではチロルハットの一行をよく見かける。歩いているときは普通の人だが、観光場所の広場などでは一斉
に歌い出す。輪になって踊り出す。それが整然と一緒、彼らは陽気でコーラスは本格的 つい聴き惚れてしまう。
中立国と認められているが、定期的に軍事訓練があるのですって。集団行動に慣れているのはその故かな。
スイス人でバリ島の私のコテージの常連さんがいて、現在はドイツ語が主流になりつつあるが、通貨はスイス・フラン
のまま。どこの家にもシェルターと銃があるのに、サムライの国 日本はなぜ家に銃が無いのかと聞く人が居る。
モスクワを離陸 暫くして女児が生まれ、機長が イベリアちゃん と名付けた。
私はスペインのイベリヤ航空で モスクワ経由 スペイン1泊で モロッコを目指していた。
モスクワを飛び出し暫くして女子乗務員がドクターはいませんか? と聞いて回っている病人か? ビジネスクラスの
前の席をカーテンで仕切り、男子乗務員が英語と日本語でお産ですと言って回った。 女子乗務員はお手伝い。
幸いに軽るかったのか、まもなくから機長が無事に生まれましたと放送、(全員拍手・アッラーに感謝している人
もいる) つづいて、ドイツのフランクフルトに非常着陸しますと言ったが。当然誰も苦情を言う人はいなかった。
着陸直後に白衣の5人ほどが来て二人を担架で運びだした。機長が赤ん坊を引き渡すについて、名前をイベリアちゃ
んと名付けましたと機内放送。
機長と空港の職員が私のすぐ後ろの席の女性にお礼を言いに来たので生ませ
たの日本の若い看護師さん と わかった時は全員が賞賛の拍手。
モロッコ王国
バー・カサブランカ
モロッコ王国のバー、カサブランカで、ハンフリーボガードに招じ入れられ
[時の過ぎゆくまま] という名のカクテルを飲んだ。
モロッコ王国の首都はラバト。 面積は日本の約2倍。 スペインのマドリードから空路カサブランカに着いた。
白黒映画の外人部隊。映画カサブランカ の国に2日間かけて着いたのだ。
大きな十字路の角にあるホテル、というより
1階の中ほどが半円形に前に突きでている建物を
真剣に探す
、ドライバ
ーが親指を立てた、あった。妻はなにも知らない。実はタクシーの運転手に地図を見せ このホテルの前を通って
から、自分のホテルに行くように頼んでから車に乗ったのだ。幸いにホテルは2kmか2.5kmほどしか離れていな
い、これなら徒歩で行ける。
泊まり客としては一番早く夕食をすませ。これから バー に飲みに行くといったら、妻がどうも変だとさっきから思ってい
たと言う。お酒はまったく飲めないのにバーに行く? それでも外出の支度をしてホテルを後にして、カサブランカ
の街を二人で歩いた。
目当てのホテルの右入り口に着いた。半円形のバーの
右ドアの脇にハンフリーボガードが立っ
ている
ではないか本
物よりほんの少し背が低いが、まったくそっくり。中折れ帽をかぶり、例のトレンチコートを着ている。グッナィ メィ
・・・ なんていっている。つまりドアマンなのだ。半円形のカウンターに案内された。チップをあげるとわざとやって
いる あの渋い顔がほころんだ、先客は3人しかいない。 実はこのすいている時間帯をねらったのだ。
外人部隊の兵隊服のバーテンダーが数人、なにのお酒としますか聞かれたようだが英語はやフランス語は全くわか
らない。しかし 心得たもので シェカーを振り始めた。ドアを入ってすぐ左側が一段高くなり、
ピアノを顔の黒い人
が弾いている。曲がかわり期待の Play
it again, Sam を弾きだした
、ピアノの後ろに大きな ボガードとバーグ
マンの写真が飾ってある。白黒映画とそっくり。 出してくれた カクテル の名前も曲名と同じPlay it again, Sam。
全く飲めない私が
、
最初で最後の カクテルが日本曲名 [時の過ぎゆくまま] だったのです。
大きいカスバ マラケシュの水売りさんと妻
モロッコといえば、サハラ砂漠とカスバ街道。でも農産物輸出国とは意外。
高アトラス山脈と小アトラス山脈を越えて、南東に向かうと、サハラ砂漠。このままの向うは
アルジェリア
。サバクで誰
も住んでいないので國境の決めようが無く、地図も不確定で点線でかいてある。
アトラス山脈の西の海側は
広大な緑地帯である。
四輪駆動車6台で出発。なれたもので砂漠でも下の堅い所があるらしく、そこに来ると
6台が横一列にならんでスピ
ード競争を始める。一番右端のガイドの小父さんが助手席の扉を開けて、皆に見えるように、片足で自
転車をこぐ真似をしてお客を大笑いさせる。
灰色のフードのついた長衣の狐のお化けの小父さんはどこで日
本語を習ったのだろう。何も無いところでもガイドのアイデアで観光客を楽しませることが出来ると感心した。
勇壮な騎馬隊のフアンタジア・ショウ
夕食をしないで夜にバスでホテルをでる。行き先は聞いても教えない。真っ暗な砂漠をかなり走るとモンゴルのテント
みたいのが10個ほど一列に並んでいるところに着いた。
その一つに案内される、各国の大勢の観光客がいる。いろんな種族の女たちが次々に入って来て、歌と踊りを
披露する、そのたびに胸の間にチップを入れさせられる。
やがて皆外に出される、と 砂漠に一斉に灯りがともる、100mほど先に60頭程の騎馬隊が30騎づつ前後に2列こちら
を向いていて、黒づくめの衣装に銃を構えている。突然前列が歓声と共に観客の方に突撃して来る。
お客にスレスレのところで、馬は前足を上げ、後ろ足で、土煙で見えなくなるほどの急停止その瞬間
銃口がラ
ッパ状になった古式銃を空に向けて一斉射撃
。火花がとび大きな発射音、交代で2波3波と突撃してくる。
観客は思わず後ずさり。これが有名な
アラビアン・ナイトの
ファンタジア・ショーに連れてこられたとは、ガイドブッ
クをよく読まなかったので気づかなかった。
(昔は見せしめの首切り場だという)
マラケシュのジェマ・エル・フナ 芸人広場 の市場
・テントの屋台の群れ。
どの町でも人一人がやっとのメディナ(旧市街)の小道を通る時は、
後ろの人から順に掠
われる
か
ら遅れないように注意してくださいと脅かす。この前のツアーの時はラバトのメデナで二人掠われたと言う、昨日は
タンジェの町で一人掠われた。 これには大笑い。
モロッコは砂漠とカスバ街道しかないのにガイドの機転でお客をヒヤヒヤさせて楽しませて呉れるところだ。
イスラエル国
イギリスとフランスの支配から、1948年ユダヤ人国家となったが、1975年以来、特にパレスチナ人との内戦状態。
私夫婦はシリヤのダマスカスからバスで国境を経て、ベイルートに入国。争いや 宗教で 問題のある国なので 素人の
私が どうこう 書きたくないので省略します。 ただ死海で泳いだら お尻が浮き上がり 変な感じ、皆 水から出てか
らシャワーが大変そう。あとは 入国と出国 にガイドが頼んだらしく、パスポートに スタンプ を押さないでカードを
貰った。その関係で旅行社が陸路入国にしたのかな。
兵役義務期間は
男子は3年、
未婚女性は2年。
ユダヤ教
世界最古の宗教のひとつ、信者は唯一神YHWHを信仰し、最も信心深い正統派の人たちは聖典トーラーに記
された多くの戒律を守って暮らしている。 トーラーは旧約聖書の冒頭の部分にあたり、ヘブライ語で書かれている。
ヤハウェはエホバとも訳される。 日本の新興宗教「ものみの塔」はこの系統とおもわれる。
シリヤ・アラブ共和国
パルミラの遺跡の一部 古代から現在動いている有名な水車 アレッポの金細工市場
イスラエルからシリヤのダマスカスに戻って入国した。いかにも独裁国らしく 殆どの4階造り以上の建物の横壁に、
アサド大統領の3m×2m程の大きい看板が付いている。あまりに多いので、ゴマをすって付けている感じがす
る。写真撮影は禁止特に軍人や警察官は撮影すると跳んできてフィルムを抜かれるとガイドから注意された。
ここからヨルダンに向かって南下したが、右側の死海・イスラエル方向 の道路の入り口は軍用トラックや装甲
車で全部ふさがれていた。
住宅は2階まで鉄格子が付いているので、宗教や泥棒除けというより、全国民が牢獄にいる感じ。
しかし長時間待たされ、やっと国境を通過して、ヨルダンに入ると様子がガラリと変わりさすが王国でノンビリとして
いる。
ヨルダン・ハシミテ王国
1812年砂漠の民により発見された、幻の都・ペトラ王国遺跡
地上からは見えない深い谷底にあり、出入り口は1.6kmの岩の割れ目だけの
、
長大な渓谷の王国。
中央の写真は王の墓といわれる。
スピルバーグ監督の映画 「
インディジョーンズ
」の撮影ロケーション地。
自動小銃の弾帯を両肩からクロスに掛けている、ヨルダンの警察官とタバコで一休み。
知っている限りの英単語だけを並べただけの、変な片言英語なので妻があきれている?
シリア→ヨルダン→パキスタン
途中で一緒になった おばあさんの話。
茹で卵を10数個ほど持って、たった一人、ヨルダンからパキスタンのカラーチ経由で北端の
古都ラホールまで大旅行する年老いたおばあさん。出稼先の娘か嫁のお産手伝い?行きか帰り?
世界で一番遅い各駅停車のパキスタン航空
に乗ってしまった。帰路ジョルダン王国のアンマン空港から、湾岸向こう
岸のアラブ首長国連邦のカタール、再び海を越えて北岸のパキスタンのカラーチまで同行させられた、70才程の
一人旅のおばあさんの話。
アンマン空港に年老いたおばあさんが居た。この飛行機でカラーチまで行けるのかとか空港職員でも観光客でも構
わず、なんども繰り返し聞いて歩いているらしい。私夫婦は、添乗員のいる男ばかり7人程の日本人のツアーに
混ぜてもらうのに成功していた。
そのところに、とうとう おばあさんが来てしまった。日本人グループに入れて一緒に連れて行って欲しいようだ、
とても可哀想で突き離せない。添乗員も皆さんも、さっぱり判らないが航空券を見せたり、パスポートを見せりり
している。
とにかく
日本人は安心と見込まれてしまった
のだから一緒に連れて行くことにした。航空機の中でも日本人グループ
にぴたりと付いている。そのうち日本の添乗員に茹で卵を10個ほど見せ、2個あげるというしぐさをした。大事な
食料を2個あげるというのだ。お礼のつもりだろう。航空食はまだ出そうもない。逆に皆がお煎餅や ビスケットな
どを与えた。
おばあさんはホロリと涙を流した。
給油中のカタール空港では私夫婦のあとばかり付いている。男ばかりのグループより夫婦者の方が安心らしい。
やがてパキスタンの南端のカラーチに到着。おばあさんは手を振りながら、出口の方に勝手に歩いて行く、係官
にチケットを見られ、違う 税関の方にゆけなんて指差しされてもマイペース。そのうち見えなくなった。入国手続
きなど無視して、駅にゆき ラホール行きの列車にでも乗ったのだろうか?
この航空機はラホール空港とイスラマバード空港には着陸しない、北京直行なのだから。
マレーシア
サーモンピンク色で有名なマレーシアのマラッカ教会
マレーシアは国策としてゴムの木を切りパーム椰子(油椰子)を植えていた。
マレーシアは過去から将来までをも考慮した大計画を持っている国。
マレー半島のタイランド南部領域クララ地峡は幅約100km。アンダマン海と南シナ海を直結する
[ クラ運河] 建設計画
がある
。完成すればマラッカ海峡を通らずに済む 300年前からあった計画であるが、近年になり、タイ国会で検
討された事もあり数度にわたって論議されている。資金と環境問題などで実現は不透明である。
船の往来が激しく、ときには海賊の危険もあるマラッカ海峡は約 1,000kmもある。最近世界一周の船旅から帰っ
た近所の同級生の話では、豪華客船でも夜間は消火放水機を海側に向けて舷側に船員が並び警戒にあたる
そうです。
クアラルンプール空港に着陸態勢になったとき、眼下に広大な赤土むき出し大地を見たスズの鉱山か精錬選別所ら
しい、大量の水が垂れ流しなのである。
天然ゴムは合成ゴムにとって替わられた。だが石油はいつか無くなるから売り惜しみなどの変化がでる。植物油な
ら種を育てれば、無くならない。車のブレーキ・オイル、ブルトーザー、クレーンなどの油圧機器は皆植物オイル。
石油合成ゴムのパッキングなどが、石油系オイルでは溶けてしまうから。現在でも需要があり。石油が底をつけ
ば燃料にもなる。天然ゴムが必要になれば、切ったゴムの木は植えれば良い。ラワン同様で草なみにすぐ大き
くなる。砂糖きびも増産も奨励しており「アコール燃料」ができる。
スリランカ民主社会主義共和国
スリランカ民主社会共和國では、南インドのタミール人が労働者としてきて住み着き武力独立闘
争を始めた。スリランカは中立國 ? なので警察程度の国軍ではどうにもならず、国連に要請したらイン
ド軍派遣されてきた。
私夫婦はこの時にスリランカに行ってしまった。道路を一部盛り上げて、ガタンとなるようにした検問所がそこかしこ
にある。インド軍の5台ほどの軍用車が走り回っている。私の車のドライバー兼ガイドは怖くてしかたがない。前
方に軍用車が見えると、すぐ脇道に避ける。インド軍は本当はどちらの味方か解らないから。 妻は平気、車の
窓をあけ後ろを向いて、インド兵に手を振る。日本人の女と判るとインド兵も数名が手を振る。彼らは警備に来
ただけだから観光気分。のんきなものだ。中立国のスリランカのシンハリ人と国連に頼まれて、同じインドの
タミール人を鎮圧にきているのだから、インドの兵隊も とまどっているのだろう。
これは15年ほど前に行った時の話ですが。現在でもこの争いは続いている。
スリランカは中立国だから、トラブルを避けるため、パスポートにイスラエルのスタンプが押してあると入国
させない。でも、イスラエルは入国の時、パスポートにスタンプを押さないで、というとカードを呉れるからパスポートに
はスタンプもサインもないから問題なし。
インドネシア共和國
バリ州
州都デンパサール市
縦に割れ門
デンパサール市には、在インドネシア日本領事館があります。
(
前年にバリ出張所から昇格
)。
世界で最多の ムスリム(イスラーム教徒)の国なのに
バリだけバリ・ヒンドゥ
教。
観光地なのでジャワ島、チモール島からのムスリムの人も多数いるが、バリ人は日本の神道のほうが宗教上からも
好きな様子で親日的。 実は私もバリ人が好きで10年も居ます。
バリは 「ブログ はてなダイアリィ」 にて日記式に紹介していますので、こちらのホーム
ページは概略にしています。
但し 藤田和夫 のペンネームです、変な誘惑回避のため時々非公開にする事があります。
バリ島の中心にある活火山
レギァン・ビーチ 妻専用の乗用車? マデイさん。
毎日? 島中を30km以上は走り回っている。
娘と孫 シュノケルの装着 ポイントに向って出発 パドマ・ホテルのプール
空港から一方通行の道順(名刺の裏) 二階造の借り家です、11年居ます。 デナーはいつも近所のレストラン、
向かって右がアフリカのドラム「ジャンベ」奏者、
客の少ない時に私がジャンベをチョツト打たせてもらえる。
お仕事中 ティタイムにするかな?
モーターバイクの1ヵ月免許証はすぐもらえます。
孫娘がデンパサールの警察署に行き、15万ルピァ (1,850円前後)で作りました。写真はパスポートを複写します。カ
ードタイプで日本の免許証と似ています。簡単なテストは連れて行ったガイドが○×を教えて呉れます。
国際ロータリー・クタ・クラブの例会に出席
バリには5つのRCIがあり私がメークしていた例会場は空港の滑走路の北隣のパトラ・ジャサ・ホテル(元国営ブルタミ
ナホテル) 国際会議に使うところで、例会場に連れて入れる
各国語のできる専属セクリタリーが数名いてフ
ロントで頼めます
。普通の町の通訳は入場できませんから、バリにメークの時はご注意。
例会の順序は到着した順にプールサイドに用意された席で食事を済ませてから例会場にはいる。
受付の女子にメーク代を払う。会長か幹事らしい人にセクリタリーの入室の許可をとる、私の席の後ろの ちよっ
つと右、耳元で囁く位置に椅子を置く。
最初に出席の時は、ジャワ島バンドン市からの若い男性(ヘリコプター製造会社員 )、フィリッピンの女性と私の
メークは3人でした。
起立 点鐘につづて
幹事が各自の宗教で短かいお祈りで[初め 終わり]
と言う。
ロータリーソングはしない。後は新
入りの私の自己紹介、後の二人は顔見知りらしく立って名前と宗教だけ。
現地会員はドイツ領事館員、オーストラリアの女性領事館員、イタリヤ領事館員も紹介されるホテル、バス会社
のオーナーなどが多い。
実は心配で、妻とホテルに前泊、セクリタリィにはローマ字で書いた原稿を渡してあるから、インドネシア語のメモを
もっている。私は日本語で簡潔に挨拶、ときどき通訳の間を空けるだけ、用意さえよければ簡単。心配して覗い
た妻に気づき招き入れてくれた。良く気配りする幹事さんがいると楽しくなる。
ジェルマン(ドイツの現地語)はわざわざ私の左隣りに席をとり、右手を斜め上に真っ直ぐ伸ばしてか
ら肘を折り、JAPANはこれだと軍隊式敬礼をして おどけてみせて私にロングフレンドと握手する。これにはいささか
あわてた。日本人の私は戦争のことは避けたがるがドイツ人は平気、次は踵をカチンとやって斜めに腕を上げ
るからハィルヒトラーそっくり、図々しいのか、でも、外交官なのだから心得ているはず、国民性なのか、全くジ
ェルマンにはいつも手こずります。しかしイタリィの男性領事官は大阪商人そっくり。外交官なのに軽いのりが
うまい。
独立直後のインドネシアではキリストやバリ・ヒンドー、仏陀はイスラーム教の分派だったんですって。
マレーシアのように政教分離はしないが、クリーン政策でヨーロッパ化を目指してい国。現在のインドネシアは宗教
の自由は認められている。 しかしもともと90%近くはイスラーム教。ついでカトリック 、バリ・ヒンドゥ、仏教。
しかし独立したばかりのころは、イスラム以外の
宗教連合会議の末、3教祖の上位にALLAH
を(宇宙をはるかに陵駕
した偉大な存在として)容認し、イスラームの分派のようにして、これで国教に反しないと生き残ったそうだ。
(註) この会議に出たという、後述の君が代を歌ったバリの老人に聞かされたままを記述。この家に大阪大学出の
日本女性で日本語の教師が居て通訳してくれました。
バリ・ヒンドゥ男子の礼服
バリ・ヒンドー教
聖水教ともいう。朝夕2回 水浴し衣服を整えて捧げものをして聖水をふりかける。
バリ・ヒンドゥ女子の礼服。
綺麗にお化粧して、黄金の腕輪や髪飾りをつけている。腕時計まで金色。
インドネシアの語源はインドの人。イスラム化を嫌い、島づたいに逃げて来た人達。しかし結局
やむなく
イスラムに改宗した。イラク アフリカ などのイスラムと少し違う。
被りものはしない、全くの男女同権。母系家族
の習慣の所がスマトラ・アチェ。ジャワなどに未だに数カ所ある。男は働きに出る。外国にも出て行く。これが
パタン料理がアジアに広がった理由だそうだ。改宗しない、5っの王族たちがバリ島に移り。島を5つに分けて
住み着いた。もともとバリに居た先住民はバリ・アガ といい 「オリジナル・バリ人」 だと胸を張って言う。インド
から来たのに差別せず上手に扱かたったらしい。
火山湖のバリアガのワヤン君の家に船で行く トルニャンの船着き場で
子供に囲まれお菓子をあげる妻
友人のワヤン・クラン君は私に「自分はオリジナル・バリ人だ」と誇らしくいう。それではお前の家に
連れて行け と 火山湖の辺のトルニャン村に行って父母兄弟一族に会って来た。白壁のきれいな家で、全部の家
にテレビアンテナが付いていた。湖底で周囲は崖。反射で撮るのでアンテナは勝手な方角を向いていた。ガイ
ドブックに書いてある「野ざらしの死体のあるお寺」の門までいったが入らなかった。
バリ人夫妻と日本の元先生と私 四人で 「 君が代の合唱 」
2004年12月31日、数日前に娘と孫娘がバリに来ていた。お湯はない、そこで二人だけ近所のホテルに1泊すること
にした、プールサイドのパーティと お風呂が目当て、バンドが入り00時に近くなると全員カウントダウンを始める
、全員がヒゲ皮のラッパを鳴らし花火も揚がり楽しいから。
デナーがすみ娘達がプールにいるのを何となく眺めていると、日本人ですかと声をかけられ振り返ると、襟の付いた
白シャツで私より2つほど多そうな態度の良い人。「そうです」椅子が空いてますからどうぞ。その方は元教師で
10人ほどのツアーを利用して来たのですが、前に来たことがあるので島内観光は行かず一人で毎日海水浴し
ているとのこと。私は商人で年寄り仕事として、往復しながら7年ほどになりますと紹介。
私の住み家をぜひ見せて欲しいと言うので、近いから案内しましょうと安コテージに案内した。手帳にしっかりメモし
ている。現地人とはヤー、オー。コテージの外人はリピーター だから殆どが顔見知り、だれかれ構わずハロー
と声を掛け合う、人情の良いところに住んでいますね ! と感心している。
つぎは
現地の家に案内しましょう
と、ここのABDI路地を奧に歩きだした。
やがてスリーブラザーズ路地に入り 大き
めの家の門をくぐり、
ハロー テテヤンゲ( I am)フジヌマと声をかけると、
男孫が出てきて、なんだフジヌマかと
祖父母を呼んで来た。ヤアヤアとおばあさんに5万ルピァ(660円)差し上げた。サイダーやら果物を出してくれる
、今晩は日本の昔の学校の先生を連れて会いに来たと、話すと、まあ 遠くからよく来てくれたと 喜ぶ。ここで
両手をあわせてお願いの形で、
おじいさん また 君が代歌ってと 頼むと
おばあさんがやっておやりの素振り
でをすると
二人でキミガァヨーワと歌った
。頼まないのに つづいて
ウミィユーカバァ
と歌い出したので先生は
驚ろきぱなし、先生がもう一度と四人で合唱、先生よほど感激したのかもう一度とまた 四人で合唱。海ゆかば
の意味はわかっていないのが救い。
大東亜学校で習った
とか、オランダ イギリス より日本は親切だった。他の国は建物と道路しかつくらなかったが日
本は学校を建て、最初は食べられると噂されたが、数学理科も教えて呉れた。、独立の時に作戦も教えて呉
れた、他国はインドネシア軍を最前線に弾避けに並べるだけだった、日本軍と戦ったなど、でも他国に無理に
使われたのだから日本を憎んでいない等、先生は熱心に聞いて手帳にメモっている。別れる時手帳に夫妻の
サインをしてもらった。
この家に大阪大学出の女性が下宿しておりデンパサールの学校で日本語の先生まことに好都合。
帰り道に先生がさっきの お金はチッブか と聞くので、 いや違う初めて訪問するときは日本だって手土産がいるでし
ょう、何もないから代わりにお金にしたのだ というと先生がでは貴方は僕のためにしたのかというので、
私が貴
方を驚かせようと今年最後のいたづらですよと 、答えた。
---先生はどこのかたか知らないが、国に帰ったら老人会の話のたねにでもしてください、とホテルの見えると
ころまで送って別れた。一晩だけでも別れは辛い。下手に名刺交換などしないほうが良いのだ。
マレーシアとインドネシアの標準語の単語スペルを同じにした。
クアラルンプール市とジャカルタ市の間で協約成立。国と国でないことに
Heh !
これはいいかげんに出来ないので、日本に帰ったら 出典を表示します。
両国ともABCDのアルファベット、しかし発音は違う、インドネシアはアー べー チェー デー エー 私はドイツ語を知ら
ないが、ドイツ語発音みたい。 しかしなんでドイツに関係があるの? わけを知っている人はぜひ教えてください。
私は人形屋なので初めは小さい衣類工場を回ったが、ティラーと書いてあるのに、ここはタイロール。 発音は
日本のローマ字のカタカナ語に似ているので、片言なら楽に覚えられる ?。
出典追記
: 1972年(昭和47年) 8月16日、首都ジャカルタ と 首都クアラルンプールで同時に
インドネシア語とマレー語のスペル統一 の実現が発表された。5年間で段階的に実施する。
現代インドネシア語辞典、 昭和51年12月1日 東京の末永 晃 (大学書林) の はしがき に
そのため書き直しに手間取った、と記してあります。
騒乱直後は1ヵ月定期でも利息(バリ語でブンガ)が年利35%だった。
銀行預金金利が為替レートのように時々変わり、 毎日、 新聞に表示されている。
インドネシア第4位のバリ銀行。数年前潰れたが今は国家管理で再開している。日本の新聞につぶた理由が掲載さ
れた。私はその新聞を今でも持っている。或る高官の弟の持ち逃げ。
私のコテージのような小さいとろろは、管理人がパスポートをもって警察に届ける安宿は長期滞在が多いから、
警察に銀行員がいて情報がはいるとホテルに早速やってくる。 1ヵ月定期でも 2ヵ月定期でも良い、ただし満
期日に来ないと自動延長になる。ブンガ(利息) は年35% [嘘] なにか私の聞き違いに相違ない? でも管理人に
聞いても35%。 日本食堂福太朗の秋山さんもそうだ と言って 並びのバリ銀行レギャン支店に案内した。若い支
店長がパンフレットの利息のところを指し示した。試しにポケット銭で3万円相当の定期をつくり、別に持っていた
6万ルピァを普通預金しキヤッシュカードを作った。1ヵ月後にキチンと解約したらキチッと年利35%の計算でした。
去年は27.5%。
現在はと隣のオフィスに今行って「バリポスト紙」をみたら、 1年はなく 6ヵ月定期24.0%でした
。
毎週のように替わるので為替レートのように新聞に表示されています [2005/01/10バリ・ホスト新聞]。
インドネシアに興味を持ったら、 HP [よろずいんどねしあ] をご覧ください。
ジャカルタ動乱の時は掲示板で大活躍、日本大使館となりの日本系ホテルに行け。車の前後に
急造の日の丸の紙を貼付けていけ、なんて書き込みがある。------、
迷惑かかるとけないし、転載の了解を頂いてなく、失礼なので内容は、彼に畏敬の念を持ってここまで。
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